野良猫です。ベトナムからこんにちは。
急な事務作業の傍ら、息抜きを兼ねてブログ更新致します。
昨日の猫食文化にはいろいろな反応があり書いた人間としては嬉しかったです。
読んで頂いて有難う御座いました。
さて、私は立命館アジア太平洋大学で言語文化(文化研究や思想研究など)と経営学を学んだ人間で、学問的には特殊な人間です。
ベトナムに来てから、現地企業に勤め始めてから、なお一層ビジネスの世界において文化に対する理解が必要だという事を感じております。
今回は猫食文化を題材に文化についての捉え方を学問的にざっくりとお伝えしたいと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まず猫食という事について2種類の反応が予想されます。
コメント欄でもはっきりとは表現されませんでしたが読み取ることができます。
1.拒絶
2.理解
猫というのは人間にとって最も近いパートナーであります。
いくら物理的に食べる事ができるといっても人間が人間を食べる事がカニバリズムとして忌避されているのと同様に、パートナーを食べるという事に生理的な拒否反応が出ることは自然な反応です。
また一方で、異国の文化であり何かしらの理由があり伝統的に食べているのだという消極的な肯定というのも世界の情報が簡単に手に入る現代においては自然な事です。
これらは、文化研究的には2つの主義思想に分けることができます。
1.拒絶:自文化中心主義(エスノセントリズム)
2.理解:文化相対主義(カルチュラルリラティビズム)
1.は自分の育ってきたエスニック集団(族群)、民族、人種の文化を基準として他の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度や思想のこと。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0)
2.は全ての文化は優劣で比べるものではなく対等であるとし、ある社会の文化の洗練さはその外部の社会の尺度によって測ることはできないという倫理的な態度と、自文化の枠組みを相対化した上で、異文化の枠組みをその文化的事象が執り行われる相手側の価値観を理解し、その文化、社会のありのままの姿をよりよく理解しようとする方法論的態度からなる。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
一見すれば2.の方が理想的で、NPのコメント欄もそのような傾向があったかと思います。
しかし、実はこの文化相対主義こそが、最終的には1.の自文化中心主義を生み出すという批判があります。また、2.が人種隔離政策を生み出したという批判もあります。
例えば、猫食文化を持つ人と猫食文化を持たない人が同じ社会で生活をしたとします。
互いに互いの文化を理解し、相対化した態度を取ったとします。
そうなると、最終的には棲み分けが発生し、「この町では猫を食べる事ができるが、この町では罰則が与えられます」という事になります。
そして猫食をする人が社会的多数派となれば、当然猫食ができる地域を増やす行動に動くでしょうから、猫食をしない人が隔離されるような事態になります。
実はこの文化相対主義こそがアパルトヘイトの原因ともいえる思想なんです。
参考にしたサイト
「文化が違うから分ければよい」のか――アパルトヘイトと差異の承認の政治 亀井伸孝 / 文化人類学、アフリカ地域研究」
(http://synodos.jp/society/13008)
ビジネスの現場に移って考えてみましょう。
ベトナムなどの新興国では賄賂が公然の秘密として横行しています。
元々は社会の英雄といえる公職者は低い給料で社会に奉公をしているのだから、市民はその御礼として心遣いをしましょう。という背景で生まれたと思われます。
上記の1.と2.で考えて見ましょう。
1.の場合は賄賂はビジネスの公平性と競争原理を侵害し健全な市場の形成に繋がらない為、罰則を与えるべきである。
2.の場合は賄賂も現地独自の商習慣であり文化の一種なのだから、郷に入れば郷に従いましょう。
こう考えると仮定します。
では、1.を母国のコンプライアンス上取る外資系企業と2.を取る現地企業はビジネス関係になる事ができるでしょうか。
答えは「非常に難しい」です。
結局はグローバル経済の勝ち組である1.が有利になり2.を取る勢力は駆逐されていきます。
そしてビジネス上はそれが正しい競争原理であるとされます。
少し抽象的な議論が続きますが、もう少しで終わります。
文化相対主義というのは個々の文化に優劣をつけず、それぞれの文化の良いところを合せより「多様」な文化を創っていこうという主義ですが、競争がある社会では優劣が付いてしまうんです。
「この文化は劣った文化であり、その文化を持つ国民は低俗な民だ。」
「この文化は優秀な文化であり、その文化を持つ国民は優秀な民である。」
第二次大戦で聞いたことがある言葉かと思います。
そうです。勝ち負けがはっきりするビジネスや国家同士の争いではこの考え方がはっきりと出てしまうんです。
これではいけないです。
では、どうすればいいのか。
ここで出てくるのが「普遍主義」と言われる考え方です。
普遍主義とは
(http://www.weblio.jp/content/%E6%99%AE%E9%81%8D%E4%B8%BB%E7%BE%A9)
物事には普遍的な原理があり、その普遍的なものを重視するべきである、という考え方を意味する表現。主に相対主義との対比で言及される概念。
例えば私欲の為に人を殺す事はイスラムでもキリスト教でも、仏教でも許されていません。
嘘をつく事はどのような社会でも良くない事とされます。
こういう普遍的な原理の中で中世から存在するのが法律という考え方です。
動物の愛護及び管理に関する法律(日本国)
動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。
(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S48/S48HO105.html)
(追記:ベトナムの刑法上、贈収賄は罰せられます。しかし、立証が大変難しく日系企業でも対応しきれない事があります。その為、このような表現となりました。)
参考サイト:http://www.tmi.gr.jp/wp-content/uploads/2015/02/TMI_vol22.pdf